酒蔵探訪 62 2010年6月
「大関」 大関造株式会社
兵庫県西宮市今津出在家町4-9
Tel.0798‐32‐2111(代)
https://www.ozeki.co.jp/
▲西川定良社長
大関株式会社は来年、創業300年を迎える。その歴史は灘酒造業の発展とともに始まった。江戸時代、いわゆる近世前期は幕藩体制が確立し、城下町や都市を中心に専業化されていた酒造業だが、その後江戸や大坂が発展を遂げると、灘では「江戸積酒造業」と呼ばれる江戸向けの酒が盛んに造られるようになった。
大関の発祥は、灘の今津村の大坂屋長兵衛(長部文次郎の始祖)による。廻船を所持し、干鰯商などを営んでいた大坂屋だが、今津村で江戸積の酒造業が盛んに行われるようになり、自ら酒造株を取得した。早くから米や薪、材木、魚などを諸国に上下する廻船業が活発だった今津一帯は、酒造業の発展とともにさらに発展していくのだが、大坂屋も「万両」という銘柄の酒を造り、幕末にかけて拡張を遂げていく。
その後、明治維新を経て、酒造業は近代化していく。大坂屋・長部家は明治17(1848)年、「万両」に代えて「大関」を主要銘柄として登録した。これは、「大関」が「大出来」に通じ、さらに「覇者」を意味することから、酒造業界の「大関」としての地位を築こうという決意も込められていたと言う。当時、大相撲が人気を高めていたことも命名に無関係ではないと思われ、実際、大相撲の優勝力士に副賞として「大関」が贈られたという記録もある。その名の通り、「大関」はその知名度を上げ続け、大阪支店や神戸出張所を開設。昭和10年には株式会社に組織を改め、さらに東京進出も図っている。しかし、第2次世界大戦によって、昭和20(1945)年には空襲で工場はほとんど焼失してしまった。
▲丹波蔵
戦後、大関は再び飛躍的な発展を遂げる。昭和24(1949)年には東京支店を再開し、同26(1951)年に最新式の瓶詰め工場の新設したほか、酒造蔵を相次いで建設し、その生産能力を高めていく。そして、昭和27(1952)年に開かれた戦後初の全国新酒鑑評会で優等賞を受賞している。戦前から人気の高かった「コールド大関」の復活や「デラックス大関」の発売、また多様なサイズの瓶をそろえるなど、高品質な酒造りや他に先駆けるアイデアは高く評価されていた。また、南極観測船「宗谷」に「大関」が積み込まれるなど、話題にも事欠かなかった。社名を「大関酒造株式会社」に改めたのは、昭和37(1962)年のことである。
「ワンカップ大関」は、昭和39(1964)年に誕生した。コップ入り日本酒という新しいコンセプトは数年前に着想を得ていたが、技術とコストの問題からなかなか実現せずにいたという。それがアメリカの製瓶技術の導入で実現したが、最初から順調にスタートしたわけではなかった。それも営業担当の努力、自販機の導入、レジャーブームの到来などによって好転。今では「大関」といえばワンカップと言われるほどの主力商品となっている。
国際化や多角化への取り組みも早く、昭和54(1979)年には大手酒造メーカーでは初めてのアメリカ進出を果たしている。また、焼酎の発売や「生酒」、「ホットカップ」、「凍結酒」など、昭和60年代初めには、次々と新製品を登場させている。現在の社名「大関株式会社」となったのは、平成3(1991)年4月である。
(左から)
・のものも 純米
・のものも
・辛丹波
・大坂屋長兵衛
・上撰 ワンカップ
現在、大関では兵庫県西宮市の本社にある「寿蔵」、「恒和蔵」、そして本社から45㎞ほど離れた丹波篠山にある「丹波蔵」の三つの蔵で酒造りを行っている。これらの蔵では、大関総合研究所で開発された最新の技術を取り入れるとともに、丹波杜氏の五感と技を駆使した酒造りが続けられている。
初代当主の名を冠した「大坂屋長兵衛」は、大関自慢の大吟醸酒。丹波杜氏伝承の技を貫いた「辛丹波」。いずれも極上のこだわりをもって醸された逸品である。また、冷やでも燗でも、どんな料理とも相性の良い「のものも」、コクのある純米酒「純米のものも」など、家庭の定番酒もラインナップが厚い。
西川定良社長は、創業以来の心である「魁の精神」を大切に、顧客満足を第一に考えていると言う。永年受け継がれてきた技術とともに、常に新たな発想を活かし、時代に合った酒造りを目指す。これはまさに「万両」時代から続けられてきたことであり、その変わらぬ姿勢こそ、今の大関の礎なのだ。
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