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酒蔵探訪 70 2011年2月

「飛露喜」「泉川」
 合資会社廣木酒造本店


河沼郡会津坂下町字市中2番甲3574
Tel.0242-83-2104

▲山口佳男社長

 1月半ば、雪に覆われた会津坂下町に廣木酒造本店を訪ねた。「飛露喜」と言えば、おそらく全国の日本酒党で知らない人はいないであろう、超人気の銘酒である。降り積もった雪が凍結した道路を、大事そうに一升瓶を抱えた人が廣木酒造の店から歩いてくる。聞けば、この日は月一度店頭で「飛露喜」を販売する日だという。そう、「飛露喜」はなかなか手に入らない。まさに左党垂涎の酒なのだ。

 廣木酒造の創業は江戸時代中期。今も続く「泉川」の銘柄で酒造りを始めた。「詳しいことはわからないのですが、越後街道沿いのこの場所で、おそらくは街道を行きかう人の休憩場所として、造った酒を出していたのだと思います」と話すのは、9代目となる廣木健司氏。代表社員として、杜氏として蔵を取り仕切る。この健司氏こそ、「飛露喜」を誕生させ、廃業まで考えた蔵を大きく成長させたのである。

 「私が蔵に戻ってきた頃、うちは普通酒が主力で、しかもいわゆる安酒で生計をたてていました」。そんな中で、高齢のために杜氏が引退、健司氏は父・健一郎氏を支え、共に酒造りを行うこととなる。「もっと、味で勝負できる酒を造りたい」という思いを抱える中で、まもなく健一郎氏が急逝する。「実際、蔵をたたもうと本気で考えました」。そんな時、テレビのドキュメンタリー番組の取材の話が舞い込む。「蔵をたたむにしても、自分がこんな仕事をしていたということを、将来子供たちに伝えられるのでは、と思ったのです」。放送された番組を見て、有名な日本酒専門店など何件か店から電話があった。「うまい酒を造れば、必ず売れる」と言う酒店主の言葉は、健司氏に勇気を与えた。信じられるものを得た、そんな思いだったという。

▲蔵の外観

 そんな酒店の一つに酒を送るように言われて送ったのが、無濾過生原酒。当初、30本も売れればと思ったのが、結局3千本までになった。「ラベルを印刷に回す余裕もなかったので、一枚一枚母の手書きでした」と、当時を振り返る。

 一躍爆発的な人気を得た「飛露喜」だが、健司氏はこの人気を一過性のものにしないために、そしてさらに自らが納得できる酒を造るために、さまざまな研究と努力を重ねる。「現代の酒造りというのは、設備と原料米、そして市場の要求にいかに答えるかということだと思います」。廣木酒造では、出来る限りの経営資源を米と設備に投資しているという。洗米から仕込み、搾りまで、従来の設備に次々と手を加え、改良を図ってきた。米は地元産の五百万石を中心に、健司氏曰く「野球で言うところの外人選手枠」の山田錦が2割5分。「トップで戦える味を求めて」の起用なのだという。そして、流通方法にもこだわる。従来のように注文を受けて出荷するのでなく、酒造りの計画の段階から出荷量、割り当てを決めるのだ。酒の味を損なうことなく消費者に届けるためである。「飛露喜」の発売前に比べ、蔵の石高は3倍量に増えている。

 「飛露喜」が研ぎ澄まされた〝主張する酒〟、〝酒と向き合って飲む酒〟であるのに対し、「泉川」は〝気楽に楽しむ酒〟だ。「泉川銘柄では、逆に飛露喜ではできない酒造りをしていきたい」と健司氏も言う、しかし、「飛露喜」人気もあって、こちらも品薄状態だ。

(左から)
飛露喜 特別純米無ろ過 生原酒
飛露喜 特別純米
泉川 純米吟醸
泉川 吟醸

廣木酒造が目指すのは、「人生に寄り添う酒」だ。「たとえば結婚を決めた男女が女性の実家にあいさつに行く時に持っていく酒。それは、ブランド価値もあって、特別な日に選ぶ酒であり、そして一緒に飲んでうまい。そして思い出に残る。そんな人生の節目に選んでいただける酒を目指したいですね」。将来的には自家所有田での米作りなど、酒造りのいわば〝川上〟に向かうことも視野に入れている。

また、日本酒の魅力を発信していきたいと健司氏。「日本酒は今、本当においしい酒がたくさんあります。それをもっとたくさんの人に知っていただく努力もしていかなければならないと思っています」。また、地域への貢献など、蔵への期待も大きい。
廣木酒造本店は、この10年余りで大きな進化を遂げた。そして、その進化は今も着実に続いている。取材の合間にも、美酒を求める客が次々と来店していた。

※「飛露喜」「泉川」ともに出荷数に限りがあり、販売店での取り扱いも限定されています。ご了承ください。

※掲載されている情報は取材日時点での情報であり、掲載情報と現在の情報が異なる場合がございます。予めご了承下さい。